上巳の節句(桃の節句・ひな祭り)~行事の歴史とお祝いの食べ物について解説~

上巳の節句とは、江戸幕府が公式の祝日として定めた年中行事のひとつです。「桃の節句」「ひな祭り」とも呼ばれています。
今では、ひな人形を飾り、女の子の健やかな成長と幸せを願う行事として定着していますが、もともとの由来を調べてみると、それとは違った意味があるようです。

【目次】

上巳の節句とは ~行事の歴史について~

森林,川,清流

ヒトガタ流し・上巳節

上巳の節句の由来といえば、一般的には、身に付いた穢れを人形に移して川や海に流すという意味で行われる「ヒトガタ流し」の風習や、中国から伝わった祓いのしきたり「上巳節」が起源であると考えられています。

 

ヒトガタ流し
ヒトガタ流しとは、人間そっくりの人形(ヒトガタ)を紙や藁、木や土で作り、それを体に当ててこすったり、息を吹きかけたりすることで心身の穢れや病気、災いや凶事を人形に移し、川や海に流す風習のことです。「流し雛」「雛流し」などともいわれています。

こうした厄払いに形代(かたしろ)や人形(ひとがた)を使うことはよく知られており、もともとは穢れを祓うために行われていた春の祓いの行事として平安の貴族が行っていたことに由来します。季節の変わり目であるころには邪気が入りやすいという理由で行われていたようです。また、「穢れ」や「祓い」といった考えが根底にあるので、神道的な意味合いが強いと思われます。

この流し雛の風習は、やがて農民にもまねされるようになります。これから始まる農耕の時期を前に、田の神を迎えるにふさわしく身の穢れを人形に移し、水に流したのであろうと想像されます。今でも、鳥取県や和歌山県などで行われており、観光行事のひとつになっています。

 

上巳節

日本庭園,川の流れ,清流

曲水の宴

上巳節とは、中国から伝わった祓いの儀のことです。上巳とは暦の呼び名で、「暦3月の上旬の巳の日」という意味です。古代中国では「陽の極まった凶の日(奇数月の奇数日は陽の極まった凶日である)」ということで、祭祀上の理由から厄や穢れを祓うことがされてきました。人々は水辺で手足を洗って厄を落とし、蘭草で穢れを祓ったといいます。巳の日から3月3日へと変わり、固定されたのが魏(220年~265年)のころとされています。

 

蘭草
藤袴のこと。中国では、古くから蘭や蘭草は香草として利用されていた。邪気を祓う力があるとされて、身に帯びたり、煮出した湯で沐浴をしたりするなどしていた。

 

やがて、もとの目的が薄れていくと、人々は水辺に集まり、お酒を飲みながら詩をつくるなど、遊びや宴会をすることが主な内容となっていきました。これは、「曲水の宴」と呼ばれています。曲水の宴とは、川辺に行った際に開かれる宴で、杯を上流から流し、それが自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を詠むというものです。こちらも中国由来のもので、上巳節とともに600年ごろには日本に伝わっていたとされます。

のちに、遊びとしての要素が強まると、実際に川辺に出かけることはなく、もっぱら屋敷の中で行われていたようです。当時の裕福な貴族の家には庭の中に池があり、それに注ぐ水も流れていたので、わざわざ出かけなくとも、水辺での宴が楽しめたというわけです。

こうして水辺での祓えの意味は薄くなりましたが、曲水の宴は春の行事として単独で催されるようになり、奈良時代に入るころには宮中行事として定着していたと考えられています。

これらのことは、主に上流階級者の間で行われていたことですが、時代を経て一般庶民へと広がっていくにつれ、農村や漁村で行われていたものも融合されていきます。

 

磯遊び
磯遊びとは漁村で行われていた風習のことで、「磯祭り」「浜降り」などとも呼ばれていますが、貝を採るために海岸に出かけ、持ち寄ったごちそうを食する神事でもありました。これは水辺での祓えの儀式に由来するとされていて、現在でも「潮干狩り」として親しまれています。今でも、静岡県の伊豆東部や瀬戸内の沿岸部、九州西部などでは、上巳の節句の日には、1日がかりで海辺に出かけ、アワビやサザエなどを採って楽しむ習わしが残っているようです。

 

山遊び
山遊びとは農村で行われていた風習のことで、野山や河原に出かけ、飲食を楽しむものです。野花を摘んだり、山中の湧き水で身を清めたりしながら春の訪れを感じていたと思われます。

 

さて、これらの風習の由来やしきたりの意味をみてみると、共通する点があることに気づきます。それは「水」です。もっと大きな視点で見れば、「自然」ということになるでしょうか。

水はすべての生物が生きるために不可欠なものであることはもちろんですが、「水に流す」という言葉があるように、私たちの目に見えないところに染み付いたものや災いの種さえも洗い清めることができると考えられていました。日本の歴史書である『古事記』の中にも、黄泉の国(死者の国)から戻ったイザナギノミコトが水辺で身体を洗い清めるという場面が描かれています。

また、日本には自然のいたるところに神が宿っているという自然崇拝の考え方がありますので、自然の中で遊び、楽しむことは、神と一緒になって遊び、楽しむことであり、同時に自然の恵みに感謝するという意味も含んでいたのだろうと思われます。

 

一方、「人形」という接点から結び付いていったものもあります。

 

ひいな遊び
ひいな遊びとは、『源氏物語』や『枕草子』にも散見されますが、これは、宮廷の女性や子どもたちの間で行われた「ままごと遊び」のことをいいます。平安時代、人形は「ひいな」と呼ばれ、公家など身分の高い家の女の子たちの間では、この「ひいな遊び(お人形遊び)」が流行っていたといいます。この遊びは、紙人形と身のまわりの生活道具をまねた玩具で遊ぶので、季節は春とは限りません。

 

上巳の節句は、こうした事柄がいつの間にか融合していき、現在の形になったと考えられています。では、どのように融合していったのか。その経緯を改めて時系列で表してみましょう。

 

  1. 中国で、水の冷たさが和らいだ3月に、川辺で口をすすぎ、体を洗い清めて厄払いする行事「上巳節(じょうしのせつ)」が起きました。これは、3月上旬の巳の日(上巳)のころは、季節の変わり目で邪気が入りやすいとされていたことによるものと考えられます。
  2. 中国に渡った遣唐使(630年から894年にかけて、大陸文化を取り入れるために派遣された留学生)たちが、日本に「上巳節」などの中国文化を持ち帰ります。その文化により、平安時代(800年~1100年ごろ)には、神で作った人形で体をなでたり、息を吹きかけたりして身のけがれを移し、それを水に流して悪いものを追い払う「厄払い」をするようになります。
  3. 川に人形を流す風習は、紙びな(紙で作ったひな人形)を川や海に流す「流しびな」「ひな流し」という行為につながっていきます。また、上巳節から派生した詩をつくる会や宴会は、「曲水の宴」として貴族たちの間で流行していきます。曲水とは、山麓や樹林、庭園を曲がりくねり流れる水のことをいいます。当時の裕福な貴族の家には庭の中に池があり、それに注ぐ水が流れていました。その上流から杯(さかずき)を流し、自分の前を通り過ぎるまでに詩歌をつくり、杯を取り上げて酒を飲み、また次に流すという優雅な遊びです。遊びの要素は強いものの、邪気を祓うとされる桃花酒(とうかしゅ)や草もちを食べるなど、厄払いの行事として行われていたようです。
  4. 一方、平安時代の宮中や貴族の子女の間では、紙人形で遊ぶ「ままごと」が盛んになります。大きなものを小さくする、小さくかわいらしいという意味の「雛」の字に当て、「ひいな遊び」「ひな遊び」といわれるようになります。この人形という接点により、上巳節と結び付いていきます。
  5. 室町時代(1336年~1867年)になると、人形職人たちは、室町時代からの大名家の風俗に『源氏物語』などに代表される平安の王朝文化へのあこがれを織り交ぜて、多くの美しいひな人形を作り出しました。以降、豪華なひな人形や段飾りが作られ、自慢のひな人形を見せ合う「ひな合わせ」やごちそうを持って親せきを訪ねる「ひなの使い」が流行しました。また。民間への広がりも見せ始め、町民が豊かになると、美しいひな人形を持つことは、町娘の夢となっていきました。

 

上巳の節句 ~お祝いの食べ物とその意味について~

ここからは、上巳の節句に欠かせないお祝いの食べ物とその意味について解説していきます。

 

ひし餅
ひし餅は、赤・白・緑の3色の餅をひし形に切って重ねたものをいいます。赤は花、白は雪、緑は若草を表しており、雪が残る中、花が咲き、草が芽吹き始める喜びの季節を表現しているといいます。また、かつては餅に薬効のある植物を混ぜ込んで作っていたようです。赤の餅にはクチナシの実を入れ、白の餅にはヒシの実を入れ、緑の餅にはヨモギを用いたという説があります。

 

クチナシの実
アカネ科の常緑樹であるクチナシの果実。花に強い芳香があるが、実に香りはない。皮は茶色で、中には黄色の果肉がある。主に色付けのために使われる。クチナシの実には、血流の改善や血圧降下作用、抗炎症作用、鎮痛などの効能があるとされている。

ヒシの実
池や川に自生するミソハギ科の水草。ひし形の葉を持つ。食用になる実には、滋養強壮効果があるとされている。実の堅さから「身持ちの堅さ」、繁殖力の強さから「子孫繁栄」の象徴とされている。

ヨモギ
キク科の多年草。香りが強い。造血効果が高いとされている。昔から厄除けの力があると考えられている。

 

ひし餅の原型は、ひし形に切りそろえられたよもぎ餅だといいます。ひし形の餅は、室町時代から祝いの席で出されるほか、親せきや近所への配り物として用いられてきました。やがて、よもぎのひし餅を白餅で挟んだもの、さらには赤餅が重ねられるようになります。また、地方によっては、黄色の餅があったり、5段重ねがあったりとさまざまでしたが、のちに現在の赤・白・緑の3段重ねに定着したようです。

 

よもぎ餅

白餅,よもぎ餅,丸い団子

よもぎ餅

よもぎ餅の由来は、中国の周の時代にさかのぼります。周の幽王が草餅を廟(びょう:祖先の霊をまつる建物、政治をとるところ)に供えたところ、天下を平定することができたという吉例に始まるといいます。それが、平安時代に日本に伝わりました。

また、よもぎ餅は、古くは母子草の汁と密を餅に混ぜた母子草の餅でした。やがて、広く繁殖しているよもぎがこれにとって代わり、室町時代によもぎ餅になったと考えられています。

東京のひな祭りには桜餅が供される多いですが、これは昭和30年代以降のことです。本来、ひな祭りに供されるのはよもぎ餅でした。

 

ひなあられ
ひなあられは、お米を煎り、砂糖の衣をかけた春夏秋冬を表す4色の甘い米菓です。穀霊が宿るとされるお米を煎った「おいり」には、場を清める力があるとされていました。昔、野山ではひな遊びを楽しむときに携帯する食料として用いられていました。関東では米の形をしたポン菓子、関西では塩やしょうゆ味の丸いあられが主流のようです。

 

白酒

桃の花を浮かべた酒,桃の花,杯

桃花酒

白酒は、米、こうじ、みりんで作った甘いにごり酒です。みりんに蒸したもち米と米こうじを仕込み、1か月ほど熟成させ、臼ですりつぶして造られます。酒とはいうものの、アルコール分はほとんど含まれていません。白酒は「桃花酒(とうかしゅ)」の名残で、「桃の節句」の名前の由来でもあります。

桃花酒は、白濁した酒に桃の花を浮かべた酒で、桃が持つ特別な力を体内に取り入れ、邪気を祓うために飲まれていました。中国では、桃の木には強い生命力があり、災いや邪悪なものを追い払う力があるとされていました。桃花酒に代わって白酒が用いられるようになったのは文化年間(1804年~1818年)のことです。

もともと白酒は、山城国(京都)の名物として江戸初期に造られていて、当時は山川白酒と呼ばれていました。山間を流れる川の水が白濁していることから白酒の名前が生まれたようです。

 

ちらし寿司
ちらし寿司は、さまざまな野菜や貝、海老などをたくさん混ぜ込んだ華やかなお寿司です。かつて、ひな祭りは水辺で行う行事であったため、重箱に入れ戸外へ持ち出していました。3月は磯遊びの季節でもあるため、海のものもお祝いの食べ物に入ります。

 

赤飯
赤飯を食べる風習は、鎌倉時代の宮中に始まるといいます。小豆が体に良いこと、赤に厄払いの意味があることなどを理由に食べられていたようです。やがて、江戸時代になると民間にも広まり、お祝い事の料理として赤飯が一般化しました。

本来の赤飯は、もち米に煮た小豆、または、ささげ豆とその煮汁を混ぜて蒸したものをいいます。「おこわ」ともいいますが、これは「強飯(こわめし)」の意味で、昔は指でつまんで食べるほど固かったようです。飯というよりは、むしろ餅に近いものだったのかもしれません。

 

蛤のおすまし
蛤のおすましとは、春の磯でふっくらと大きく育った蛤のすまし汁のことをいいます。蛤は、自分の片割れの貝でないと絶対にかみ合わないという特徴があることから、「よい結婚相手と結ばれるように」という親の願いが込められているといいます。

 

ふきの煮物
春野菜のふきを薄味で煮たものです。みずみずしい緑が春の訪れを思わせます。

 

雛菓子
雛菓子とは、お祝いの席で出されるお菓子のことです。江戸時代の振売りでは、雛菓子として落雁(らくがん)を売っていたようですが、その流れを汲むものが片栗の打ち菓子や金花糖(きんかとう)と呼ばれるものです。

金花糖は、昭和30年代の東京のひな祭りには欠かせないものでした。絵柄は鯛に蛤、サザエ、海老など海のものが多くありました。色も淡いピンクや緑で彩られ、見た目にもかわいらしいお菓子です。

また、飴細工の有平糖(あるへいとう)で作られたものもありました。こちらは高級品で、盛んに出回るようになったのは、昭和40年代以降になります。細かい細工が可能で、色彩の美しい有平糖は、より好まれたようです。

 

雛の膳
雛の膳とは、お祝いの席で出されるお膳のことをいいます。鯛のお刺身、赤貝の酢味噌あえ、姫カレイ、菜の花のおひたし、ちらしずし、赤飯、卵焼き、雛板、白酒、桜餅などが供されます。東京の雛の膳は蛤のすまし汁が定番のようですが、京都では一般に、しじみのすまし汁が定番のようです。また、お菓子には昔ながらの「ひきちぎり」が用いられることが多いようです。

ひきちぎり
京都の雛菓子の代表といえるもの。桃色に色付けられた餅を「おたまじゃくし」のようにひきちぎり、きんとんにした餡をのせたもの。

 

雛の膳は、特に決まりごとがあるわけではありませんが、古くからのしきたりで、浜遊びの名残の貝類、彩りの鮮やかな寿司などが好まれる傾向にあります。江戸時代には飯蛸(いいだこ)や小鯛、若鮎、姫サザエ、とこぶし(小さなあわび)など、小さな食材が用いられたようで、この風習が現代にも残っていると思われます。

元来、「子どものお祭り」と定められていたわけではありませんが、現在のひな祭りの形になっていくにつれ、雛型のお膳もそのまま子どもたちのお膳として移っていき、いずれの料理も小さくかわいらしく作られるようになりました。小さく手の込んだ作り物は、私たち日本人の得意とするところ。時代とともに独自の世界を創っていったと考えられます。

 

まとめ

上巳の節句(桃の節句・ひな祭り)の行事の歴史とお祝いの食べ物について解説してきました。

上巳の節句は、本来は穢れを祓い、清めるという神道的な考えや自然崇拝の要素が強いように思われます。季節の変わり目である時期に身を清めることで気持ちをリセットし、草木が芽吹き出す春のパワーを受け取る。厳しい寒さがようやく終わり、待ち望んだ春の到来に喜び、そして感謝する行事が上巳の節句の本来の意味なのかもしれませんね。

 

最後までお読みいただきありがとうございました!