年中行事と日本の暮らし ~これだけは知っておきたい季節の行事をご紹介~

日本には多くの年中行事がありますが、その行事の意味や目的を知らない人も多いのではないでしょうか。日本人として知っておきたい季節の行事の意味や目的、歴史などについて改めて見てみましょう。

目次

年中行事とは? ~起源と成立、その後の展開について~

起源

年中行事の多くは中国起源、あるいは中国伝来の行事にあると考えるのが一般的ですが、民俗学の研究成果では、日本の年中行事は、ごく普通の生活を送る人々の必要から生まれたという考え方をするようです。

日本各地で行われている行事内容は中国にはない独自のものも多く、たとえ日取りや来歴が中国起源であったとしても、安易に行事内容までも中国伝来と考える必要はないというのです。これは、日本人が暮らしてきた環境に大きく関係しているといえます。

日本は古来より稲作に判断基準を置く稲作社会でした。古代の律令制は、祖に示されたように稲作に基盤があり、江戸時代の支配原理は石高制(こくだかせい)と呼ばれ、米の量で富を表示していました。

さて、この稲作は、種をまいてから収穫するまで長い時間がかかります。春先に苗代に種をまき、その後、田植えを行い、水の管理や雑草・害虫の駆除など、手間暇かけて稲穂を稔らせなければなりません。秋になればそれらを収穫し、脱穀が終わるころには冬を迎えます。

その全過程は天候・気象に左右されますが、失敗をくり返しながらも、次第に同じような気温や降水のときに行われるようになりました。

しかし、現代でこそ自分たちの力で生産条件を確保できるのが当たり前となりましたが、かつては自分たちの技術的な工夫や努力だけでは豊作を手に入れることはできませんでした。そこで、最終的には、神仏という特別な力に頼るしかなかったのです。

稲作の開始から収穫までの順調な進行と、結果としての豊作を達成するために行われる一連の行事が、毎年くり返されることで固定されていきました。こうした経緯から、日本の年中行事の多くが農耕儀礼に由来しているともいえます。

成立

農村で始まった農耕儀礼の中には、朝廷で行われていた儀礼に取り入れられ、やがて宮廷儀礼化したものも少なくありません。

大化の改新以降、集権的な政治機構が整えられるにつれ、儀礼も年間を通して設けられ、その数も多くなりました。平安時代に入ると、これらの宮廷儀礼を整理し、規範化することが進められました。ここに年中行事という語も登場します。

以後、年中行事は宮廷儀礼として規格化され、公家の公務の中で重要な位置を占めるようになります。そして、数多くの儀礼を間違いなく行うために手引き書が作成され、伝授されていきました。

このように、中国から伝えられたものや、農村で行われていた農耕儀礼を集約し、整えた朝廷が、年中行事を成立させたといえます。

展開

朝廷で整えられた年中行事は、武士の存在によって展開していきます。

平安時代に各地を支配していた武士は、農耕儀礼の固定されたものを年中行事として行っていたと思われますが、次第に、荘官や国衙(こくが)の役人になり力をつけてくると、宮廷行事にも関わるようになっていきます。それをきっかけに武士としての独自の行事を行うようになりました。

近世になると武士を頂点として、百姓、町人、職人が各々の職業を基礎にした年中行事を形成し、やがて庶民にも広がっていき、今にいたるというわけです。

 

起源と成立、その後の展開を改めて見てみると、現在行われている年中行事の多くは、農耕儀礼、宮廷儀礼、武士独自の儀礼といった3つの要素から形成されていると考えられますね。日本の年中行事の数の多さにも納得してしまいます。

 

年中行事とは? ~神仏習合ならではの日本の年中行事~

よく日本人は無宗教が多いといわれますが、正確には、自分は無宗教だという自覚を持った人が多いというべきかもしれません。

諸外国の無宗教の人たちは、神など全く信じておらず、信仰とは無縁の生活をしています。それに比べ日本の無宗教者は、神や仏は信じていないといいつつも、多分に信仰に根ざした暮らしをしています。あえていうなら、「無宗教」という宗教に属しているといえるかもしれません。

各種宗教を取り混ぜてしまう日本の信仰スタイルは独特で、八百万の神(この世のありとあらゆるものには神々が宿っている)をはじめ、曖昧なものに対する批判勢力がなかったからこそ生まれたと考えられます。

かつて、神と仏は明確に区別されることなく、双方ひっくるめて信仰の対象とされてきました。そのようにして長い時間過ごしてきたため、明治政府によって神仏が分離されても、日本人は信仰生活を営む上で、どちらか片方を選択することはできなかったのです。

ゆえに、現在でも神道に由来する行事もあれば、仏教に由来する行事もあるというわけなのです。

 

今では、神道や仏教だけでなく、さまざまな由来の行事が行われていますよね。これこそが、「無宗教」教である日本人にしかできない信仰活動なのかもしれません。

 

では、具体的な行事の解説に入る前に、神道由来の行事と仏教由来の行事について簡単に見ていきたいと思います。

神道由来の行事

 

正月
正月の行事全般は仏教色が強いようですが、正月に飾る鏡餅やお屠蘇、おせちなどのごちそうは神道に由来するものといえます。これらは本来、神に供えるためのものであり、神社で供える神饌(しんせん)と同じ意味を持つとされています。
同じく正月に門口(かどぐち:家の出入り口)にすえる門松も神道に由来するものといえます。これは、豊作をもたらす農耕神である「歳神」の依代(よりしろ:精霊や先祖の霊が宿るもの)として立てられます。

 

3月3日の「ひな祭り」
ひな祭りは、古代の春の祓いの行事から起こったものとされています。今では「ひな飾り」が定着していますが、もともとは紙で作った「人形(ひとがた)」を川に流し、穢れを祓うという神道的な行事だったと考えられます。

 

7月7日の「七夕」
七夕は、中国の牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の伝説と、日本に古来伝わる「棚機女(たなばたつめ)」の信仰が習合して成立したものとされています。
棚機女の信仰とは、陰暦7月7日の夜、人里離れた水辺の機屋で巫女が機を織り、神と一夜を共にして穢れを取り去ってもらうという信仰のことをいいます。
また、笹の七夕飾りは依代を起源としているとみられています。

 

盆の行事
盆の行事は、祖先の霊をまつる日本土着の行事が土台となっています。それが、中国経由で祖先崇拝を取り込んだ仏教の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と習合して、現在のような形式になったと考えられています。
夏祭りで行われる盆踊りも、精霊を慰め、そして送り出す風習(神送り)から発したものとみられています。

 

虫送り
虫送りは、イネの害虫を太鼓などで追い払う神事です。

 

大祓
大祓(おおはらえ)は、6月と12月の晦日(最終日)に行われる祓いの行事のことをいいます。

 

魂祭り
魂祭りとは、祖先の霊を迎える夏の祭りのことをいいます。

 

仏教由来の行事

 

正月 1月1日
1年の始まりである正月は、先祖が帰ってくる時期とされています。古来日本では、神は木のこずえに宿ると考えられていたので、正月に新しい年の神様の依代として門松を飾りました。それが、仏となった先祖にとっては、位牌と同様の役割があると見なされました。

 

節分 2月上旬
節分とは、除災招福を願って豆をまく行事のことをいいます。もともと節分は「季節の分かれ目」を意味し、立春、立夏、立秋、立冬すべての前日のことをいいますが、現在は一般に旧暦新年に当たる立春の前日を指します。
豆は「魔を滅する」にも通じ、古来邪気を払うとされていたため、元来仏事ではないものの、布教のために寺院で行った行事が広く普及したと考えられています。

 

涅槃会 2月15日
涅槃(ねはん)とは、本来は悟りの境地のことをいいますが、釈迦が入滅したことそのものを指すようになりました。寺院では釈迦を偲び、「涅槃会(ねはんえ)」というお勤めが行われ、本尊として涅槃図を掲げます。

 

彼岸 3月20日前後
寺院では、春分の日には自らが悟りの境地に至れることを願う「彼岸会」が行われました。これがいつしか先祖供養に結び付き、人々が墓参りするようになったのが、今のお彼岸のあり方の始まりと考えられています。

 

花祭り 4月8日
花祭りは、仏教の始祖である釈迦が生まれた日を祝う行事のことをいいます。

 

中元 7月
中元は本来、中国の道教の信仰のひとつで、旧暦7月15日を指し、人間の罪を許す神を祀る贖罪(しょくざい:金品を出して罪をのがれる)の日とされました。これがお盆に結び付いたと考えられています。

 

盆 8月中旬
盆は、正式には「盂蘭盆会」といいます。宮中では旧暦7月に父祖をその苦しみから救う供養が行われていました。これが民間の祖霊信仰と融合して普及したと考えられています。

 

除夜 12月31日
除夜とは大晦日の夜のことをいいます。煩悩を清めるために各寺院で梵鐘(ぼんしょう:寺院のつり鐘)を108回鳴らします。

 

こうしてみると、改めて私たち日本人は神や仏、どちらも大切にしていることが分かりますね。良いところは、まず受け入れてみる。そんな姿勢が感じられます。

 

年中行事一覧 ~これだけは知っておきたい季節の行事~

それでは、これだけは知っておきたい季節の行事を一覧でご紹介していきます。

1月

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お正月

1月は1年の最初の月で、正月・睦月(むつき)ともいいます。1年の無事平安を願う諸行事が集中して行われます。

 

正月
1年の最初の月、および、その月に行われる行事を正月といいます。
正月の行事は、その準備に取りかかる12月中・下旬の諸行事から始まり、1月20日前後に行われる二十日正月・シマイ正月などと呼ばれる行事で終了すると考えられているところが多いようです。

また、正月の行事は、元日を中心とした大正月と、14・15日を中心とした小正月に大きく分けられます。
大正月は、暦の普及とともに年の始めの1月を年初とする考え方が定着し、元旦に行う歳神祭りや年始のあいさつなど、公的な儀礼を行うようになったことに始まります。
一方、小正月は、稲作農耕を営む人々の満月の日を重視する考え方の名残ともいえます。

しかし、この2つの正月も近代初頭に公的な行事がほぼ元旦を中心に行われるようになり、かつ、明治6年(1873)に太陽暦が採用されると、15日と満月が必ずしも一致しないことが多くなったため、稲作農耕を営む人々の間でも小正月の意味が徐々に不明になり、正月といえば大正月を意味するようになったと考えられています。

 

大正月
大正月には、歳神様を迎え、共に過ごすことで1年の無病息災を願う行事が多く行われます。

 

仕事始め
仕事始めとは、1月2日に年明け初めての仕事をすることをいいます。普段の仕事を形だけ行い、その年の労働の安全や技能上達を願う儀礼とされています。

 

七草
正月7日の朝に七草粥を食べて祝う行事のことをいいます。

 

蔵開き
1月11日に、その年初めて蔵の戸を開けることをいいます。この日は一日中蔵を開けておきます。

 

成人の日
成人の日は、昭和23年(1948)に作られた国民に関する法律で、「1月15日は大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます日」と定められました。(現在は1月第二月曜日)
古くは、1日の仕事量で基準を満たせば一人前の男であるされ、年齢に関係なく成人と認められていました。

 

小正月
小正月は、太陰太陽暦では満月のころに当たるため、農耕に関わるさまざまな予祝儀礼が行われます。

 

藪入り
正月と盆(7月)の16日のことをいい、嫁や奉公人が実家に帰る日とされています。草深い田舎に帰るということで藪入りと名付けられたともいわれています。

 

初市
その年初めて行われる市のことをいい、その年の吉凶を占う俵引きなどの行事も行われます。
市には市神が祀られ、風車・起き上がり小法師・市飴などの縁起物が売買されるほか、市にやってきた人々が新年のあいさつを交わす交流の場にもなっていました。

 

二十日正月
1月20日のことをいい、この日で正月の行事は全て終わるとされています。
また、恵比須・大黒を祀る恵比須講の日でもあり、それぞれの絵像の掛け軸や像を祀り、その前に膳を供えます。これは、漁師や商人が集団で祭祀を行う信仰結社的な意味合いもあるようです。

 

 

2月

旧暦2月をさす如月(きさらぎ)は、草木の更生を意味する「生更ぎ」のことだといいます。また、旧正月が2月になることも多く、節分、立春、初午など年の初めを祝う行事が続きます。すべてのものが新しくなるような時期だといえます。

 

次郎の朔日
次郎の朔日とは2月1日のことをいい、主に関東地方での呼び名です。餅をついたり、ぼた餅や赤飯を作ったりして祝います。

 

節分
節分とは、本来は季節の分かれ目の意味であり、二十四節気の立春、立夏、立秋、立冬の前日のことをいいます。その中でも旧暦の正月に近い立春の前日が最も重要だとされており、現在では、立春の前日のみを節分と呼ぶようになりました。
節分には、正月や小正月と同じような年頭の行事が行われます。

 

事八日
2月8日と12月8日を事八日(ことようか)といいます。東日本では両日に行事を行うところが多く、西日本では2月8日のみに行事を行うところが多いです。コトとは、祭事や斎事を意味します。

事始め・事納め
2月8日と12月8日は、一方を事始め、もう一方を事納めとする地域があります。1年のさまざまな行事や農事の始まりと終わりと考えれば2月8日が事始めとなり、コトを正月行事と考え、その始まりと終わりと考えれば12月8日が事始めとなります。

 

針供養
針供養とは、折れた針や使い古した針を供養して、裁縫の上達を願う行事のことをいいます。2月8日に行うところが多いようです。豆腐やこんにゃくのような柔らかいものに針を刺し、近くの神社に納めます。
使い古した道具には神霊が宿り、それらをむやみに捨てないで供養するという道具供養のひとつでもあります。

 

初午
2月の最初の午の日を初午といい、「お稲荷さん」と呼ばれる稲荷神社ではお祭りを行います。稲荷神社の神様は、もともと「稲生(いねなり)」の意味を持つ五穀豊穣の神様です。後々、商売繁盛や漁業の守護神ともいわれ、広く知られるようになりました。
京都伏見稲荷の神様が伊奈利山に降りてきたのが和同4年(711)の2月の最初の午の日であったことからお祭りが行われるようになりました。稲荷神社は全国に3~4万社あるともいわれています。また、江戸時代では、この日が「寺子屋」の入学日であったことから、初午に新しいことを始めると縁起が良いとされています。

きつね
稲荷神社の鳥居の両端にはきつねが座っており、親しみを込めて「おきつねさん」と呼ばれています。きつねは春に山から降りてきて田畑のねずみを食べてくれるため、田の神様の使者とも考えられていました。

油あげ
きつねの大好物といえば油あげです。この日のお供えに油あげは欠かせませんが、ほかにも、御神酒(おみき)や赤飯、初午団子などをお供えします。
きつねうどんやいなりずしは、油あげをもっとたくさん食べられるようにと考えられたメニューだともいわれています。

 

涅槃会
涅槃会とは、釈迦が入滅したとされる旧暦2月15日に行われる行事のことをいいます。現在は新暦で行われています。寺院では涅槃図を掲げて法要を営みます。この日に涅槃団子を作る地域は多く、米粉や小麦粉で団子を作り、釈尊に供えました。
旧暦2月15日は釈迦の入滅の日という仏教行事として広まっていますが、その年の二番目の望月の日であり、農作業の開始時期にもあたることから、農耕儀礼の折り目でもあったと考えられます。

 

 

3月

草木が弥生い(いやおい)茂る月という意味で弥生という異称があります。野山や浜辺に出かけて飲食を楽しむ行事が多く、ひな祭りもその要素を持っています。

 

ひな祭り
3月3日に行われる行事で、ひな人形を飾り、女児の成長を祝います。上巳、桃の節句とも呼ばれています。

 

春彼岸
春分の日を中日とした前後3日ずつの合計7日間をいい、1日目を彼岸の入り、7日目を彼岸の明けと呼びます。春と秋の2回、ほぼ同じ行事が行われます。

 

社日
雑節ひとつで、春分・秋分に近い戊(つちのえ)の日をいいます。社日は稲作の始まりと終わりの節目の時期に、農神の去来と結び付いて展開してきた行事といえます。

 

 

4月

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桜の花

卯月の由来のひとつに、ウツギの花が咲く卯の花月という説があります。現行の暦の4月は満開の桜を楽しむ季節ですが、ひな祭りを月遅れで行う地域も多く、3月同様に野山や海辺での行事もあります。

 

花見
日本では花といえば桜を指し、花見といえば桜を見て楽しむことをいいます。
平安時代には詩歌の対象として好まれ、貴族の春の遊びとして盛んに行われていました。庶民が花見を楽しむようになったのは江戸時代からで、花の下で花見弁当を広げ、歌や踊りを楽しみました。農村でも春には山野へ出かけて花をめで、花を摘みながら飲食を楽しむ日がありました。
春先に花をめでることには、古代の日本人が花の咲き具合をみて、その年の豊凶を占ったという説もあります。これは、農耕に先立つ農耕儀礼のひとつとも考えられます。

 

灌仏会(かんぶつえ)・花祭り
灌仏会とは、旧暦4月8日を釈迦の生まれた日として、主に寺院を中心として祝う行事のことをいいます。現在は、新暦の4月8日に行う寺院が多いようです。
釈迦の誕生仏を水盤に置き、上から五色の香水(こうずい)をかけたことから灌仏会といいます。灌仏会を花で飾った花御堂に安置することから花祭りとも呼ばれています。

甘茶
誕生仏にかける香水は、沈香(ぢんこう)、白檀(びゃくだん)、丁子(ちょうじ)などの香木を湯にひたしたものでしたが、江戸時代からは甘茶を使うようになりました。
甘茶はアマチャヅルの葉を煎じたもので、飲めば丈夫になるともいわれています。

 

卯月八日
卯月八日とは旧暦4月8日のことで、この日を例祭日とする神社もあり、山の神の祭りだとするところも多くあります。
この日には山に登って飲食を楽しんだり、山に咲いている花を採ってきたりすることが、各地で行われてきました。山遊び、高い山、お山始め、嶽行き(だけゆき)などとも呼ばれています。
この山から採ってくる花は、農作業に先立ち、神を迎えるための依代だと考えられています。
また、「卯月八日に種まかず」という言葉があるように、この日に田畑に入ることを禁ずるところも多く、農耕の開始にともなう田の神を迎える日とする伝承が広く分布しています。

 

 

5月

皐月(さつき)は早苗月の意味で、旧暦5月は梅雨の時期に当たります。立夏を過ぎれば、暦の上では夏を迎えます。

 

八十八夜
八十八夜とは日本独自の雑節のひとつで、立春から数えて88日目をいい、5月2日ごろになります。稲作では種もみをまく目安にしている地域も多くあります。また、茶摘みを開始する時期でもあります。

 

端午の節句
端午の節句とは旧暦5月5日のことで、古代より重要な節目とされ、江戸時代には五節句のひとつとして幕府の式日に定められました。後に武家社会に定着し、民間へと広がりました。現在では、男児の初節句の祝いとして行われています。

 

 

6月

水無月(みなづき)には「水の月」という意味があります。梅雨に入り雨の多い日が続きますが、田植えを控えた農家にとっては恵みの雨となります。

 

更衣
更衣とは、季節によって衣服を変えることをいいます。現在は一般に6月1日と10月1日に行われています。
平安時代は宮中行事のひとつとされ、旧暦4月1日からは夏装束に、10月1日からは冬装束に改める習慣でした。また、装束を改めると同時に、調度品も季節に応じたものに取り換えられました。

 

むけ節句
むけ節句とは旧暦6月1日のことで、土地によってムケノツイタチ・キンヌギツイタチ・コオリノツイタチ・ムギノツイタチなどと呼ばれています。
この日は蛇が桑の木の下で脱皮するので、桑畑に入ってはいけないという禁忌や、正月の餅を取っておき、歯固めの餅と称して食すなど、土地によってさまざまな行事がみられます。

歯固め
歯固めとは、正月についた餅を凍み餅や干し餅にして保存し、この日に食べる行事をいいます。固いものを噛むことで厄災を祓い、健康と長寿を願う意味が込められています。
歯固めは正月と6月に行う場合があり、この行事の根底には、正月を再び重ねるという気持ちが隠れていると指摘されています。
江戸時代には、世の中が悪いときに6月1日を元旦と見なして正月をやり直す「取り越し正月」が行われた記録があります。

茹で饅頭(うでまんじゅう)
旧暦6月朔日には、その年に収穫した新麦で茹で饅頭を作って食べます。麦の刈り入れが終わり、収穫を祝うとともに、その年に取れた小麦を口にすることで新たな生命力を蓄える手段であったと考えられます。

 

入梅
入梅とは雑節のひとつで、農家にとっては、田植えをはじめとする農作業の段取りを組む目安として意味を持っていました。

 

天王祭り
天王とは牛頭天王(ごずてんのう)のことをいいます。牛頭天王は疫病をもたらす神とされていますが、牛頭天王を祀れば疫病を免れると信じられ、疫病が発生しやすい夏場、特に旧暦の6月中旬に祭りが行われてきました。
また、牛頭天王は京都の祇園社の祭神である関係から、祇園祭りと呼んでいる土地も多くあります。天王祭りの時期は水神を祀るときでもあり、それぞれの地域の習俗と習合して水神祭りの性格を帯びている場合も少なくありません。

 

夏越
夏越とは旧暦6月晦日の行事のことをいい、心身の穢れを祓い、災厄を避けるための禊祓(みそぎはらえ)が行われます。現在でも、ナゴシノハラエ・ナゴシノセック・ワゴシマツリなどと称してさまざまな行事が伝承されています。
神社の行事として浸透していった夏越の祓には、庭上に設けた茅の輪をくぐるものと、氏名と年齢を記した人形(ひとがた)で身体を撫でたあと神社に納めるものに大きく分けられます。
こうした行事の背景には、1年を正月から6月までと、7月から12月までに両分する観念があったのではないかと指摘されており、6月晦日の夏越の祓は、12月晦日の大祓と対応関係にあるといえます。
夏越は和やかという意味の「和し」に夏が越せるようにとの願いをかけて「夏越」になったといいます。本格的な夏を迎える前に落ち着きを取り戻し、心静かにお参りをしようという気持ちが表されています。

茅の輪
茅の輪とは茅(かや)や藁(わら)などを束ねて作る大きな輪のことで、茅の輪をくぐると疫病などの災厄を免れるといわれ、多くの神社で行われています。左回り、右回りと8の字を書くように3回くぐるのが一般的です。
室町時代の後期には、貴族の家だけでなく宮中や将軍家でも行っていたといいます。

水無月
水無月とは、夏越の祓の日に食べる伝統的な和菓子のことをいいます。室町時代、宮中では氷室(山の穴蔵にある氷の貯蔵庫)の氷を口にする宮中行事が行われていました。その氷の形を庶民がまねて作られたものが始まりとされています。
白い三角形のういろうは削りたての鋭い氷を表しており、上にのった小豆は邪気を払うとされていました。氷は貴族や将軍家にしか許されないぜいたく品であったため、庶民のあこがれから生まれたお菓子といえます。

 

 

7月

ほおずき,オレンジ色

ほおずき

富士山の山開きをはじめ、各地の河川では納涼や水浴びが解禁となります。本格的な夏を迎え、七夕やほおずき市など、夏を彩る行事も多く行われます。また、疫病の発生しやすいときでもあり、悪病退散の願いを込めた祇園祭りが繰り広げられます。

 

山開き
霊山などでは、一定期間に限り入山を許可しているが、その最初の日を「山開き」と称しています。こうした山々の多くは山岳修行の場として神聖視され、また、神霊の宿る地として信仰の対象とされました。そのため、一般の人々は立ち入ることができませんでしたが、江戸時代に山岳信仰を母体とする講が各地に作られるようになり、先達(せんだつ)の導きで期間を定めて庶民の登山が行われるようになりました。
山開きの日取りは春から夏にかけての時期が多く、入山式、開山祭りなどの名称でさまざまな行事が行われます。秋には閉山となり、これを山仕舞(やまじまい)といいます。近年は信仰的な要素が薄くなり、夏山シーズンの幕開けを告げる意味合いが強いです。

 

川開き
川開きとは、河川での納涼や水遊び、アユ漁などの解禁日のことをいいます。川開きは、もともとは水神祭りや悪疫退散の行事から始まったもので、夜空に大音響を轟かせる花火は、悪霊を祓うとされてきました。

 

半夏生
半夏生(はんげしょう)とは、七十二候の夏至の末候に当たり、雑節のひとつにも数えられます。半夏とはカラスビシャクというドクダミ科の草のことで、半夏生は、それが生える時期という意味があります。この日は天から毒が降るといわれ、その毒が井戸に入らないようにふたをしたといいます。

 

七夕
7月7日に行う行事のことをいいますが、8月7日とする地域もあるようです。

 

祇園祭り
祇園祭とは、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼、また、同社を勧請(かんじょう:神仏の分霊を他の土地に移し、祀ること)して各地で行われている諸社の祭礼のことをいいます。古くは祇園御霊会(祇園会)と呼ばれ、その歴史は平安時代に遡ります。天災や疫病の流行は不慮の死をとげた怨霊などの仕業と考え、さまざまな手段で霊を慰めて鎮送します。
祇園御霊会は御霊信仰を背景に登場した祭礼で、天禄元年(970)から毎年営まれるようになったといわれています。疫病退散を掲げてさまざまな趣向を凝らした祇園会は、長い歴史の中で全国各地に広まり、夏祭りを代表するまでになりました。

 

土用
土用とは雑節のひとつで、立春、立夏、立秋、立冬の前の18日間のことをいいますが、一般的には立秋前の夏の土用だけをいいます。最初の日を「土用の入り」と称して、餅や団子を作る土地も多くあります。
また、土用に入って3日目を「土用三郎」といい、この日の天気を見て、その年の作柄の豊凶を占います。

 

 

8月

現在、盆は月遅れで行うところが多く、8月の行事のイメージが強くあります。精霊迎え(しょうりょうむかえ)、施餓鬼(せがき)、盆踊りなど、それぞれの地域ごとに変化に富んだ先祖供養が行われています。

 


盆とは、先祖の霊を家々に迎えて供養する魂祭りを中心とした旧暦7月15日前後の行事のことをいいます。月遅れの8月に行う地域も多くあります。一般に、13日に迎えて祀り、15日から16日にかけて精霊送りをしますが、行事の期間は地域によって異なり、一様ではありません。
盆は正月とともに1年を両分する最初の月の大きな行事で、両者には魂祭りに伴う共通の要素がみられます。

 

 

9月

9月は初秋の季節ですが、近年は下旬まで厳しい残暑が続きます。二百十日、二百二十日の台風シーズンでもあり、特に稲の被害が心配されるため、農村ではその前後を厄日としています。

 

八朔
旧暦8月1日、8月朔日を略して八朔といいます。八朔節句ともいい、現在は1か月遅れの9月1日に行うことが多いです。
草取りなど稲作に伴う労働もひと通り終わりを迎え、秋の豊作を期待する季節でもあります。各地の行事もそれにちなんだものが多く行われています。
ほかにも「たのむ・たのみの祝い・たのもの節句」といい、稲の穂出しを祈願する行事や、早稲の穂を取ってきて焼き米を作るなど刈り初めの行事を行う土地や、品物を贈答する習俗もみられます。
江戸幕府では八朔を正月元旦、3月3日とともに重要な日と考えられ、八朔御祝義として、大名・旗本が白帷子(しろかたびら)姿で総出仕する日とされていました。これは、天正18年(1590)のこの日に徳川家康が江戸入りしたことにちなむものといわれました。

 

虫送り
虫送りとは、稲などの農作物に付く病害虫を追い払う共同祈願の行事のことをいいます。虫追い、虫祈祷、サネモリオクリ(実盛送り)、ウンカ送りとも呼ばれています。
鯨油(げいゆ)での実質的な駆除方法が普及するまで、害虫は現代人の想像を絶するほどのもので、江戸時代の三大飢饉のひとつである享保17年(1732)の大飢饉も害虫が引き金になったといいます。防虫の発達により虫送りは現在ほとんど廃れていますが、地域の伝統行事、無形文化財として行っている例や復活した例もあります。
行事の形式は、村の生活圏外へ追い出すことで村内を清浄化し豊作を得ようとするもので、疫病神送りなどと類似しています。実際に害虫の発生を見てから行うところが多いため、行事の期日が一定しているところは比較的少ないようです。

 

二百十日
二百十日とは暦上のひとつで、立春から数えて210日の日のことをいいます。この日は厄日、荒れ日とされているため、稲作に大きな打撃を与える暴風雨を避けるための儀礼が行われます。
二百十日を無事に過ごすと、村で1日か半日を農休みとし、各家そろって祝うこともあったようです。

 

重陽の節句
重陽の節句には中国からの渡来植物である菊が付きものであることから菊の節句とも呼ばれています。中国では、この日に香気の強い山椒を身に付けて高所に上り、杯に菊花を浮かべた菊花酒を飲み、物を食べると長寿になると信じられていました。

 

十五夜
十五夜とは、旧暦8月15日の夜に満月を鑑賞する行事のことをいいます。中国では、この夜を秋(旧暦7月~9月)の中心という意味で「中秋」といい、名月を愛でる中秋節が行われてきました。
日本には文徳天皇(827~58)の代のころに始まり、奈良・平安時代の貴族の間では、中秋観月の詩歌管弦の宴が広く行われていたようです。
しかし、中国から風雅の行事として伝わる以前にも、日本人は満月というものを大切にしてきました。暦が普及するまでは満月の日が折々の節目の日であり、特に旧暦8月の満月は初穂祭の日に当たります。
また、月の様子を見てその年の作物の豊凶を占うこともされていたようです。旧暦8月の十五夜では大麦の作柄を、旧暦9月の十三夜には小麦の作柄を占うという伝承もあります。

供物
十五夜祭では縁側に代を設け、白木の三方に芋、団子、枝豆、栗、おはぎなどを盛り、すすきの穂など秋の七草を飾り、月を眺め祀りました。供物はさまざまありますが、芋の収穫期にあたるため、芋を供えることが多いようです。このことから、芋名月とも呼ばれています。
こうして供えた団子や芋を子どもたちが盗みに来る習慣がありますが、この供物は取られても咎めないとか、供物を取られた家は縁起が良いとか、よその家から取ってきた団子を食べると健康でいられるといった言い伝えもあります。

 

十五夜とは ~お月見の風習やお供え物について~

 

秋彼岸
春分と秋分とを中日として、その前後3日ずつの7日間を彼岸といいます。太陽が真東から昇り真西に沈むことから、太陽や日に関連した民俗行事も多く行われているようです。

 

社日
社日とは雑節のひとつで、春・秋分に最も近い前後の戊(つちのえ)の日をいいます。
この日は田の神祝いの伝承があります。「お社日さんは田の神」といわれ、田の神や作神が春の社日に田に来て、秋の社日に山へ帰るという去来伝承が各地にあるようです。

 

 

10月

初旬は長雨や台風による天候不順のことも多いですが、中旬に入ると爽秋の日々が続きます。村々では豊かな実りの出来秋を迎え、山や海の幸にも恵まれます。

 

神無月
10月の異称に神無月、神去月(かみさりつき)があり、神無月にはすべての神々が出雲に集まるため、出雲以外では神不在となります。在地の神々は9月晦日に旅立ち、10月晦日に帰ってくるとされています。
この全国的な神々の移動の根底には、神が社殿に常住せず、神祭りに際して去来するという神幸(しんこう:神の旅)観念があるようです。
出雲以外の地域や家では、団子や小豆粥を作り、神々の旅立ちのための神送りと、還幸時の神迎えの行事を行います。
このほか、留守神と呼ばれ、神々が出雲に行っている間も郷里に留まり留守居をする神の観念もあるようで、神無月関係の習俗は、地域や家によってさまざまあると考えられます。

 

亥の子と十日夜
亥の子とは、旧暦10月(現在は新暦10月または11月の場合が多い)の亥の日の行事のことをいいます。月の最初の亥の日を農家・武士(殿様・大名)の亥の子、二番目の亥の日を農家・商人・職人の亥の子、三度ある場合は漁師・町人の亥の子などといいますが、初亥の日に収穫祭を行うことが多いようです。
農村では、この日に亥の子の神が田から家へ帰ってくるといわれ、迎えるために亥の子餅や、ぼた餅、二股大根を供える地域が広くあります。
亥の子の神は田の神・作神などの神様だと信仰され、稲の刈り上げ祭りをするところもあります。
亥の子の行事はかつて西日本で盛んであり、これに対して東日本では、10月10日に亥の子と同じような行事内容の十日夜(とおかんや)という収穫祭を行っています。

亥の子餅
亥の子餅を食べる習俗は中国から伝えられ、中国では10月亥の日亥の刻に、餅に大豆など七種を混ぜて食べると病気にならないという俗信がありました。それが平安時代に日本の宮廷・貴族に伝わり、室町時代になると幕府でも同じように10月の各亥の日を祝い、亥の子餅(玄猪ともいう)の行事を行うようになり、加えてその献上・贈答が行われました。
伝来した亥の子の時期がちょうど稲の収穫期にあたり、農村に受け入れられた亥の子の行事は、在来の収穫祭に結び付き、稲の刈り上げ祭へと展開しました。
また、このほか亥の子の日に炉を開く(使い始める)習慣もみられます。

十日夜
十日夜とは、旧暦10月10日(新暦の同日か11月10日に行われることが多い)に行われる稲の刈り上げ祝いのことをいいます。十日夜の多くは、田の神が田から上がる祭りとなっています。

 

 

11月

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招福の熊手

細長い日本列島では、晩秋から初冬の季節です。秋晴れの好天気に恵まれる初旬には、秋の収穫祭が続きます。

 

酉の市
酉の市とは11月の酉の日に行われる市のことをいい、お酉様とも呼ばれています。酉の日は2回、もしくは3回あり、それぞれ一の酉、二の酉、三の酉と呼ばれ、三の酉まである年は火事が多いとされています。
酉の市が行われるのは東日本のみで、関西では1月10日の十日戎の祭りがそれにあたります。
酉の市は、足立区鷲神社別当の正覚院での祭りで鶏を献上して開運祈願し、その境内で竹ほうきや熊手、粟餅、八頭芋(やつがしらいも)を売ったのが始まりとされています。江戸時代の酉の市では、冬至後の太陽の復活や新春を迎える祭りとしても意識されていました。
熊手は福・銭・豊作などをかき集める縁起物として、宝船・大福帳・当たり矢・稲穂・おかめ(お多福)・入船・檜扇・大判小判・千両箱・えびす・大黒などの飾り付けをして売り出されました。特に景気に左右されやすい遊女屋・茶屋・料理屋・船屋・芝居関係者などは好んで買い求めたといいます。

 

七五三
七五三とは、毎年11月15日を中心として行われている風習で、数えで三・五・七歳の男女児を連れて氏神や大社などに参拝する通過儀礼のひとつです。「七歳までは神の子」という伝承があるように、日本人は7歳になって初めて人として一人前あつかいされてきました。
7歳になると、その子どもは氏子(うじこ)として氏神に認められるとされ、「氏子入り」と呼んで氏神に参拝し、産土神からも地域社会からも社会人、村人候補となったことを承認されるのです。
七五三という数字は、だいたいにおいてその年齢に行われていたことを、奇数を重んじる中国思想の影響を受けながら、江戸時代に固定化されたものと思われます。

 

大師講
大師講とは旧暦11月23日夜から24日にかけて行われる行事のことをいい、本来の意味は23日の夜に忌籠りをすることにありました。この夜、大師様が身なりを変えてこっそり訪れてくるので、小豆粥(大師粥ともいう)を作って接待するのだといいます。
ダイシサマは弘法大師のことであるいう伝承が一般的ですが、元三師(がんさんし)・天台智者大師・達磨大師などとする地方もあります。
元来、タイシは大子・太子のことで尊いマレビトを指し、異界からの来訪神として歓待する仏教以前の風習が想定されています。これが前掲の高僧になったのは、仏教の布教によるものだと思われます。

 

霜月の収穫祭
秋の収穫が終わった後に新穀の感謝をする行事のことをいいます。旧暦11月に行われる祭りをいいますが、現在では新暦11月の祭りを含める場合が多いようです。
霜月祭りに共通していることといえば、その年の最後の祭りであること、1年の最初の農耕祭りである二月祭と対応するものとして考えられていること、物忌みの要素が強いことがあげられます。

 

 

12月

1年の最後の月で、師走(しわす)・極月(ごくげつ)ともいいます。1年を締めくくり、新しい年を迎える準備を行います。

 

事始め
事始めとは正月行事の準備を始める日のことで、12月8日を指します。

松迎え
松迎えとは、正月行事の準備の始まりとして、山に入って正月の門松になる松を取ってくることをいいます。12月13日に行うことが多かったようです。

 

煤払い
煤払いとは煤掃きとも呼ばれ、1年間の煤を払って家中を清めることをいいます。
煤払いは、まず神棚から始め、家具や畳を外に出して屋内を掃除します。煤払いのほうきは煤竹と呼ばれ、天井に届くように長く作ります。使い終わったほうきは、道祖神や屋敷神などに納め、小正月の火祭りで燃やします。
また、煤払いの日を煤掃き節句とか煤掃きの年取り、煤掃き正月などと呼ぶところもあり、煤掃き団子や小豆粥を作って食べるところも多いといいます。
このように、煤払いは単なる大掃除ではなく、正月を迎える準備を始める重要な日であったことがうかがえます。
現在では囲炉裏やかまどを使わなくなったため、実質的な意味での煤払いの意味は薄れ、その結果、正月準備の開始という意識もみられなくなりました。

 

歳暮
歳暮という言葉は年末を意味しますが、実際には年末に行われる贈答のことを指しています。中元が盆礼に関わっているのと同じように、歳暮も新しい年を迎えるときの魂祭りに関わっていると考えられています。そのため、鮭や鰤などの魚、米、餅といった食品を送ることが多かったようです。
歳暮で贈られた塩鮭や鰤といった魚は、年取り魚として年取りの膳に使われました。本家、両親、仲人などに年取りの魚や餅を贈ることによって、一緒に歳神様を祀るという意味がありました。

 

大祓
大祓は12月31日に行われる年越の祓のことをいいます。7月から12月までの厄を落とし、新年の健康と厄除けを祈願します。人間の罪を人形(ひとがた)に移して川に流したり、かがり火を焚いたりします。

 

まとめ

これだけは知っておきたい季節の行事を一覧でご紹介してきました。地域によってさまざまな違いはあるとしても、一部を抜粋しただけでもこれだけ多くの行事があることに驚きます。

しかし、各々の行事を節目と考えれば、生活にもメリハリが生まれます。どんなことでも受け入れ、皆で楽しんでしまおうという前向きな気持ちがあるからこそ、古くからの行事が今でも行われているのかもしれません。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

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